自身の感じたことや考えなど。
なぜ記事を書くことが重要なのか
editウィキペディアの上ではとても多くの論争が見受けられます。多くの人が集まっている以上、意見の相違が多くみられるためでもありますが、優先順位や全体のバランスが見えてない人もしばしば見受けられます。
一般社会では仕事はある程度まとまったものとして存在しています。例えばパン屋さんであれば材料の仕入れ、メニューの開発、実際の製造、販売などが一連のものとしてあり、それらを毎日やっていく中でより美味しいパンや多くの売り上げなどを追及していくわけです。しかしウィキペディアのような「フリー」な世界では、各個人がやりたいことだけをやることができます。それ自体は悪い事ではありませんが、作業の目的を持たない集団は志や連帯感を持てず、結局は烏合の衆になってしまいます。
いうまでもなく、ウィキペディアは百科事典です。百科事典の中心は記事であり、これの質を高めることがウィキペディアの第一の目標です。記事の質を高めるためには、当然ながら記事について知らねばなりません。そして記事を知るために最も手っ取り早く、最善の方法が「実際に記事を書く」ということなのです。実際に記事を作っていけばウィキペディアにおける優先順位というものは自ずから見えてくると思います。
ですから、もしウィキペディアで活動しようと思われる方は是非一度記事を作ってほしいと思います。小さな記事で構いません。ネット上の出典によるものでも構いませんから。自分の時間や(時には)お金を使う。頭をひねる。手を動かす。記事の骨組みを考える。肉づけを行い、画像を探す。多くの見返りを求めずに。世のため人のために。気持ち悪い言い方かもしれませんが、これら一つ一つの行いがウィキペディアで活動するための研修というか、一種の修行なのだと思います。
ボランティアは「遊び」とは異なる
editウィキペディアはネット上のものです。ネットでは一つのブラウザであらゆるものにアクセスできるせいか、ウィキペディアの編集が「ボランティア」であることは忘れられがちです。
勘違いされてる方がたまにおられますが、「ボランティア」は「遊び」ではありません。「ボランティア」とは日本語でいえば「寄進」や「普請」にあたるものです。つまり社会のために資金や労働力などを差し出すことです。
たとえば東北の被災地に瓦礫を片づけに行ったとします。被災地の方と交流するのは楽しいでしょうし、汗を流す喜びもあるでしょう。しかしそれが「遊びに行っている」のかといえば、そうではないはずです。
大きな記事を作って満足だとか、誰かの役に立てて嬉しいとか、そういう健全な楽しみや自己満足はあっていいと思います。ただ、ウィキペディアはゲームではないし、純然たる「娯楽」ではない。忘れられがちですが、ここがウィキペディアの最大の特徴なのです。
例えばツイッターならば必ずしも真面目なことをつぶやく必要はありません。2ちゃんねるであれば少々乱暴なことも許されるでしょう。しかしウィキペディアではそういうところではないのです。
仕事から帰ってビール片手に編集される方もいるでしょう。学校が休みの日にのんびり書くのもいいでしょう。ただ「ウィキペディアは世のため人のためのものである」ということは頭の片隅にでも置いておいてほしいと思います。
サブカルチャー関連記事に対する考え方
edit日本語版ウィキペディアでは昔からサブカルチャー関連の記事(以後「サブカル記事」とする)に関する論争があります。個人的に思う事は、日本語版ウィキペディアは腹をくくってサブカルチャー関連の適正な発展を目指すべきということです。理由は2つあります。
一つには、ウィキメディア財団がサブカル記事やその編集者の存在を肯定しているということです。例えば、ウィキメディア財団が発行したウィキペディアン募集用のポスターにはヲタク(ゲーマー?)と思われる人間がはっきり写っています。これは財団がサブカルチャー関連の存在を認めるどころか、推奨すらしていることを意味します。日本語版も財団の方針に従っている以上、それに倣う必要があるのではないでしょうか。
二つ目は、サブカル記事がウィキペディアの治安上の弱点になっている事です。簡単に言うとサブカル記事には2ちゃんねるやまとめサイトのノリで参加している利用者も多く(これには「自警団」と呼ばれる利用者も含まれる)、モラルがかなり低い状況にあります。これらに対して適切な管理が行われないと利用者は互いに恨みをため込む事になり、これは荒らしを生む原因になります。サブカル記事を整備することは、治安上の弱点をカバーすることにもつながるのです。
具体的な対策としては、適正な品質の記事は積極的に認めつつも記事立項や書き込みの内容に関して無理のない範囲で決まりを整備し、管理していく体制が必要だと思います。もちろん、そこには知的・文化的レベルの高い利用者が参加する必要があるのはいうまでもありません。「参加する利用者のモラルや知的・文化的レベルをできるだけ高く保つ」「決まりを整備し、個人的な感情や正義感の入る余地を減らす」「記事のクオリティを一定以上に保つ」このあたりを推進していけば、自ずからサブカル記事関連の問題は減少していくと思います。
ついでに言えば、日本語版は「サブカルチャー」の記事も充実していません。伝統的にアキバ系の方が多いウィキペディアコミュニティでは「サブカルチャー」といえばアニメやゲームの話ばかりされがちですが、「サブカルチャー」には映画や一部の演劇、現代アート等も含まれます。しかし、これらに関する記事は決して充実しているとはいえません。
わが国はサブカルチャーの一大生産国であり、今後もサブカル記事が増えていくことは間違いないでしょう。ならば、日本語版も地に足を付けてサブカル記事をバランスよく整備していくことが必要なのではないでしょうか。
いわゆるメインカルチャーとサブカルチャーの問題について
editそもそも「サブカルww」的な思考様式自体が実は「サブカル」的、ヲタク的なものなのではあるまいか。
「サブカルww」という感情が生まれる原因はいわゆる「恥」の精神やタテマエ的なものもあるが、結局は自分が俗物なのではないか、という引け目のような感情から来るのではないかと思う。なぜかは知らないが、アニメやゲームといった所謂「アキバ系」の人々の中には特にこの手の感情が強くあるように感じられる。
ただ、こういった感情は彼らがメインカルチャーに通じた結果生まれたものではないように思われる。何故かと思うのなら実際のメインカルチャーの世界を覗いてみればいい。そこにはただ道があるのみである。個人的な感覚ではあるが、メインカルチャーの側からすると「メイン対サブ」という感覚はあまりない。美術館で絵(もちろん、所謂ファイン・アートである)を見ているときに「これはマンガより優れている!」などと考えたことはないし、論語を読んでいるときに「これはサブカルの…!」などとわざわざ考えることもない。ただ学び、観賞し、味わうのみである。
また知的・文化的レベルの高い人間は多くの場合、他者を理解したり他社と対話する能力が高く、また品性が備わっているため、わざわざ対立などしないのである。ノーベル賞受賞者が公の場で「サブカルww」などと言っているのを聞いたことがあろうか。要はそういう事である。
そもそも現実社会において、メインの文化とサブの文化は必ずしも対立するものではないように思われる。ハイカルチャーと大衆文化の間に大きな中流文化があって、互いが緩やかにつながっているのが現代社会ではないだろうか。そもそも大衆の我々が大衆文化に親しむのは当然の事であって、所詮大衆の一員でしかないものが自らの文化を攻撃して悦に入ってどうするのだろうか。
なぜこんなことを考えるかというと、この「サブカルww」という感覚がしばしば正常な思考を妨げるからである。人間というのは弱いもので、少し目の前に余計なものをぶら下げられるだけで簡単に思考のピントがずれてしまう生き物である。また、ウィキペディアにおけるこの手の議論が信用ならないからである。
「メインかサブか」に関する個人的な基準はあるが、結局多くの利用者の意見をすり合わせて結論を出す事が出来ないのなら、その時間を使って既存の記事に出典をつけ、改良していく方が優先順位が高いものと考える。