トリステインの王宮は、ブルドンネ街の突き当たりにあった。王宮の門の前には、 当直の魔法衛士隊の隊員たちが、幻獣に跨《またが》り闊歩《かっぽ 》してい る。戦争が近いという噂《うわさ》が、二、三日前から街に流れ始めていた。隣 国アルビオンを制圧した貴族派『レコン・キスタ』が、トリステインに侵攻して くるという噂だった。  よって、周りを守る衛士隊の空気は、ピリピリしたものになっている。王宮の 上空は、幻獣、船を問わず飛行禁止令が出され、門をくぐる人物のチェックも激 しかった。  いつもならなんなく通される仕立て屋や、出入りの菓子屋の主人までが門の前 で呼び止められ、身体検査を受け、ディティクトマジックでメイジが化けていな いか、『魅了』の魔法等で何者かに操られていないか、など、厳重な検査を受け た。  そんなときだったから、王宮の上に一匹の風竜があらわれたとき、警備の魔法 衛士隊の隊員たちは色めきたった。  魔法衛士隊は三隊からなっている。三隊はローテーションを組んで、王宮の警 護を司《つかさど》る。一隊が詰めている日は、他《ほか》の隊は非番か訓練を 行っている。今日の警護はマンティコア隊であった。マンティコアに騎乗したメ イジたちは、王宮の上空にあらわれた風竜めがけていっせいに飛び上がる。風竜 の上には五人の人影があった。しかも風竜は、巨大モグラをくわえている。  魔法衛士隊の隊員たちは、ここが現在飛行禁止であることを大声で告げたが、 警告を無視して風竜は王宮の中庭へと着陸した。  桃色がかったブロンドの美少女に、燃える赤毛の長身の女、そして金髪の少年、 眼鏡《めがね》をかけた小さな女の子、そして黒髪の少年だった。少年は、身長 ほどもある長剣を背負っている。  マンティコアに跨《またが》った隊員たちは、着陸した風竜を取り囲んだ。腰 からレイピアのような形状をした杖《つえ》を引き抜き、一斉に掲げる。いつで も呪文《じゅもん》が詠唱できるような態勢をとると、ごつい体にいかめしい髭 面《ひげづら》の隊長が、大声で怪しい侵入者たちに命令した。 「杖を捨てろ!」  一瞬、侵入者たちはむっとした表情を浮かべたが、彼らにたいして青い髪の小 柄な少女が首を振って言った。 「宮廷《きゅうてい》」  一行はしかたないとばかりにその言葉に頷《うなず》き、命令されたとおりに、 杖を地面に捨てた。 「今現在、王宮の上空は飛行禁止だ。ふれを知らんのか?」  一人の、桃色がかったブロンドの髪の少女が、とんっと軽やかに竜の上から飛 び降りて、毅然《き ぜん》とした声で名乗った。 「わたしはラ・ヴァリエール公爵が三女、ルイズ・フランソワーズです。怪しい ものじゃありません。姫殿下に取り次ぎ願いたいわ」  隊長は口ひげをひねって、少女を見つめた。ラ・ヴァリエール公爵夫妻なら知っ ている。高名な貴族だ。  隊長は掲げた杖を下ろした。 「ラ・ヴァリエール公爵さまの三女とな」 「いかにも」  ルイズは、胸を張って隊長の目をまっすぐに見つめた。 「なるほど、見れば目元が母君そっくりだ。して、要件を伺《うかが》おうか?」

「それは言えません。密命なのです」 「では殿下に取り次ぐわけにはいかぬ。要件も尋《たず》ねずに取り次いだ日に はこちらの首が飛ぶからな」  困った声で、隊長が言った、 「密命だもの。言えないのはしかたがないでしょう」  風竜の上から飛び降りた才人《さいと 》がそう言った。  隊長は、口を挟んできた才人の容姿を見て、苦い顔つきになった。見たことも ない服装だし、鼻は低く、肌も黄色い。そして、背中に大きな剣を背負っている。

 どこの国の人間だかはわからぬが、貴族ではないことは確かであった。 「無礼な平民だな。従者風情が貴族に話しかけるという法はない。黙っていろ」

 才人《さいと 》は目を細めて、ルイズに向き直った。従者と言われて腹が立っ た。ほんとは従者ですらなく、使い魔なのだが、そのいかにも軽く見下した言い 方にかちんときた。才人は背中に吊《つ》ったデルフの柄《つか》を握ると、ル イズに聞いた。 「なあルイズ。こいつ、やっちゃっていい?」 「なに強がってるのよ。ワルドに勝ったぐらいでいい気にならないで」  才人とルイズのやり取りを聞いて、隊長は目を丸くした。ワルド? ワルドと いうのは、あのグリフォン隊の隊長のワルド子爵のことだろうか? それを倒し た? どういう意味だ?  なんにせよ「ワルドに勝った」とは聞き捨てならない。隊長は再び杖《つえ》 を構えなおした。 「貴様ら、何者だ? とにかく、殿下に取り次ぐわけにはいかぬ」  硬い調子で隊長は言った。話がややこしくなりそうだった。ルイズは才人を睨 《にら》んだ。 「な、なんだよ」 「あんたが余計なこと言うから疑われたじゃないの!」 「だって、あの髭《ひげ》オヤジ生意気なんだもの」 「いいから、あんたは黙ってなさいよね!」  その妙なやり取りを見て、隊長が目配せをする。一行を取り囲んだ魔法衛士隊 の面々は、再び杖を構えた。 「連中を捕縛《ほ ばく》せよ!」  隊長の命令で、隊員たちが一斉に呪文《じゅもん》を唱《とな》えようとした とき……。  宮殿の入り口から、鮮やかな紫のマントとローブを羽織った人物が、ひょっこ りと顔を出した。中庭の真ん中で魔法衛士隊に囲まれたルイズの姿を見て、慌て て駆け寄ってくる。 「ルイズ!」  駆け寄るアンリエッタの姿を見て、ルイズの顔が、薔薇《ば ら 》を撒《ま》 き散らしたようにぱあっと輝いた。 「姫さま!」  二人は、一行と魔法衛士隊が見守る中、ひっしと抱き合った。 「ああ、無事に帰ってきたのね。うれしいわ。ルイズ、ルイズ・フランソワーズ ……」 「姫さま……」  ルイズの目から、ぽろりと涙がこぼれた。 「件《くだん》の手紙は、無事、このとおりでございます」  ルイズはシャツの胸ポケットから、そっと手紙を見せた。アンリエッタは大き く頷《うなず》いて、ルイズの手をかたく握り締めた。 「やはり、あなたはわたくしの一番のおともだちですわ」 「もったいないお言葉です。姫さま」  しかし、一行の中にウェールズの姿が見えないことに気づいたアンリエッタは、 顔を曇《くも》らせる。 「……ウェールズさまは、やはり父王に殉《じゅん》じたのですね」  ルイズは目をつむって、神妙に頷《うなず》いた。 「……して、ワルド子爵は? 姿が見えませんが。別行動をとっているのかしら?  それとも……、まさか……、敵の手にかかって? そんな、あの子爵に限って、 そんなはずは……」  ルイズの表情が曇《くも》る。才人《さいと 》が、言いにくそうにアンリエッ タに告げた。 「ワルドは裏切り者だったんです。お姫さま」 「裏切り者?」  アンリエッタの顔に、陰がさした。そして、興味深そうにそんな自分たちを、 魔法衛士隊の面々が見つめていることに気づき、アンリエッタは説明した。 「彼らはわたくしの客人ですわ。隊長どの」 「さようですか」  アンリエッタの言葉で隊長は納得するとあっけなく杖《つえ》をおさめ、隊員 たちを促し、再び持ち場へと去っていった。  アンリエッタは再びルイズに向き直る。 「道中、何があったのですか?……とにかく、わたくしの部屋でお話ししましょ う。他のかたがたは別室を用意します。そこでお休みになってください」  キュルケとタバサ、そしてギーシュを謁見《えっけん》待合室に残し、アンリ エッタは才人とルイズを自分の居室に入れた。小さいながらも、精巧なレリーフ がかたどられた椅子《い す 》に座り、アンリエッタは机にひじをついた。  ルイズは、アンリエッタにことの次第を説明した。  道中、キュルケたちが合流したこと。  アルビオンへと向かう船に乗ったら、空賊《くうぞく》に襲われたこと。  その空賊が、ウェールズ皇太子だったこと。  ウェールズ皇太子に亡命を勧めたが、断られたこと。  そして……、ワルドと結婚式をあげるために、脱出船に乗らなかったこと。  結婚式の最中、ワルドが豹変《ひょうへん》し……、ウェールズを殺害し、ル イズが預かった手紙を奪い取ろうとしたこと……。  しかし、このように手紙は取り戻してきた。『レコン・キスタ』の野望……、 ハルケギニアを統一し、エルフから聖地を取り戻すという大それた野望はつまず いたのだ。  しかし……、無事、トリステインの命綱であるゲルマニアとの同盟が守られた というのに、アンリエッタは悲嘆にくれた。 「あの子爵が裏切りものだったなんて……。まさか、魔法衛士隊に裏切り者がい るなんて……」  アンリエッタは、かつて自分がウェールズにしたためた手紙を見つめながら、 はらはらと涙をこぼした。 「姫さま……」  ルイズが、そっとアンリエッタの手を握った。 「わたくしが、ウェールズさまのお命を奪ったようなものだわ。裏切り者を、使 者に選ぶなんて、わたくしはなんということを……」  才人《さいと 》は首を振った。 「王子さまは、もとよりあの国に残るつもりでした。お姫さまのせいじゃないよ」

「あの方は、わたしの手紙をきちんと最後まで読んでくれたのかしら? ねえ、 ルイズ」  ルイズは頷《うなず》いた。 「はい、姫さま。ウェールズ皇太子は、姫殿下の手紙をお読みになりました」 「ならば、ウェールズさまはわたくしを愛しておられなかったのね」  アンリエッタは、寂しげに首を振った。 「では、やはり……、皇太子に亡命をお勧めになったのですね?」  悲しげに手紙を見つめたまま、アンリエッタは頷いた。  ルイズは、ウェールズの言葉を思い出した。彼は頑《かたく》なに「アンリエッ タは私に亡命など勧めてはいない」と、否定した。やはりそれは、ルイズが思っ たとおり嘘《うそ》であったのだ。 「ええ。死んで欲しくなかったんだもの。愛していたのよ。わたくし」  それからアンリエッタは、呆《ほう》けた様子でつぶやいた。 「わたくしより、名誉の方が大事だったのかしら」  才人は、違うと思った。名誉を守ろうとして、ウェールズはアルビオンに残っ たわけじゃない、彼は、アンリエッタに迷惑をかけないために……、ハルケギニ アの王家が、弱敵ではないことを反乱勢に示すために、アルビオンに残ったのだ。

「お姫さま、違いますよ。あの王子さまは、姫さまや、このトリステインに迷惑 をかけないために、あの国に残ったんです。俺《おれ》、そう聞きました」  ぼんやりとした顔で、アンリエッタは才人の方を見た。 「わたくしに迷惑をかけないために?」 「自分が亡命したら、反乱勢が攻め入る格好の口実を与えるだけだって王子さま は言ってました」 「ウェールズさまが亡命しようがしまいが、攻めてくるときは攻めよせてくるで しょう。攻めぬときには沈黙を保つでしょう。個人の存在だけで、戦は発生する ものではありませんわ」 「……それでも、迷惑をかけたくなかったんですよ。きっと」  アンリエッタは、深いため息をつくと、窓の外を見やった。  才人は、ゆっくりと思い出すようにして言った。 「勇敢に戦い、勇敢に死んでいったと。それだけ伝えてくれって、王子さまは言っ てました」  寂しそうに、アンリエッタは微笑《ほほえ》んだ。薔薇《ば ら 》のように 綺麗《き れい》な王女がそうしていると、空気まで沈うつに淀《よど》むよう だった。才人《さいと 》は悲しくなった。  アンリエッタは美しい彫刻が施《ほどこ》された、大理石削りだしのテーブル にひじをつき、悲しげに問うた。 「勇敢に戦い、勇敢に死んでいく。殿方の特権ですわね。残された女は、どうす ればよいのでしょうか」  才人はなにも言えなかった。黙って、下を向いて、バツが悪そうにつま先で床 をつついた。 「姫さま……。わたしがもっと強く、ウェールズ皇太子を説得していれば……」

 アンリエッタは立ち上がり、申し訳なさそうにそう呟《つぶや》くルイズの手 を握った。 「いいのよ、ルイズ。あなたは立派にお役目どおり、手紙を取り戻してきたので す。あなたが気にする必要はどこにもないのよ。それにわたくしは、亡命を勧め て欲しいなんて、あなたに言ったわけではないのですから」  それからアンリエッタは、にっこりと笑った。 「わたくしの婚姻《こんいん》を妨げようとする暗躍は未然に防がれたのです。 わが国はゲルマニアと無事同盟を結ぶことができるでしょう。そうすれば、簡単 にアルビオンも攻めてくるわけにはいきません。危機は去ったのですよ、ルイズ・ フランソワーズ」  アンリエッタは努めて明るい声を出して言った。  ルイズはポケットから、アンリエッタにもらった水のルビーを取り出した。 「姫さま、これ、お返しします」  アンリエッタは首を振った。 「それはあなたが持っていなさいな。せめてものお礼です」 「こんな高価な品をいただくわけにはいきませんわ」 「忠誠には、報いるところがなければなりません。いいから、とっておきなさい な」  ルイズは頷《うなず》くと、それを指にはめた。  その様子を見て、才人も、王子の指から抜き取った指輪のことを思い出した。 ジーンズの後ろポケットに入ったそれを取り出すと、アンリエッタに手渡した。

「お姫さま、これ、ウェールズ皇太子から預かったものです」  アンリエッタは、その指輸を受け取ると、目を大きく見開いた。 「これは、風のルビーではありませんか。ウェールズ皇太子から、預かってきた のですか」 「そうです。王子さまは、最後にこれを俺《おれ》に託したんです。お姫さまに 渡してくれって」  ほんとは、斃《たお》れたウェールズの指から抜いてきたものだったけど……、 才人はそう言った。  そう言ったほうが、アンリエッタの心の慰めになると思ったからだった。  アンリエッタは風のルビーを指に通した。ウェールズがはめていたものなので、 アンリエッタの指にはゆるゆるだったが……、小さくアンリエッタが呪文《じゅ もん》を呟くと、指輪のリングの部分が窄《すぼ》まり、薬指にぴたりとおさまっ た。  アンリエッタは、風のルビーを愛《いと》しそうになでた。それから才人《さ いと 》の方を向いて、はにかんだような笑みを浮かべた。 「ありがとうございます。優しい使い魔さん」  寂しく、悲しい笑みだったけど、才人に対する感謝の念がこもった笑みだった。 その笑みの高貴さと美しさに打たれて、才人は、いえ、その、と口の中でもごも ごと呟《つぶや》いた。 「あの人は、勇敢に死んでいったと。そう言われましたね」  才人は頷《うなず》いた。 「はい。そうです」  アンリエッタは、指に光る風のルビーを見つめながら言った、 「ならば、わたくしは……、勇敢に生きてみようと思います」    王宮から、魔法学院に向かう空の上、ルイズは黙りっぱなしだった。キュルケ が、いつたいウェールズから取り返してきた手紙に何が書いてあったのか、ルイ ズと才人から聞きだそうと、なんやかや話しかけてきたが、二人はしゃべらなかっ た。 「なあに? あれだけ手伝わせて、どんな任務だったか教えてくれないの? お まけにあの子爵は裏切り者だっていうし。ワケわかんないわ」  キュルケは才人を、熱っぽい視線で見つめた。 <img src="img/03_015.jpg"> 「でも、ダーリンがやっつけたのよね?」  才人《さいと 》は、ルイズの顔をちらっと見てから、頷《うなず》いた。 「う、うん。でも、逃げられたし……」 「それでもすごいわ! ねえ、いったいどんな任務だったの?」  才人は頭をかいた。ルイズが黙っている以上、話すわけにはいかないのだった。

 キュルケは眉《まゆ》をひそめ、それからギーシュの方を向いた。 「ねえギーシュ」 「なんだね?」  薔薇《ば ら 》の造花をくわえて、ぼけっと物思いに耽《ふけ》っていたギー シュが振り向いた。 「あなた、アンリエッタ姫殿下が、あたしたちに取り戻せと命じた手紙の内容を 知ってるんでしょ?」  ギーシュは、目をつむって言った。 「そこまではぼくも知らないよ。知ってるのはルイズだけだ」 「ゼロのルイズ! なんであたしには教えてくれないの! ねえタバサ! あな たどう思う? なんかとっても、バカにされてる気がするわ!」  キュルケは、本を読んでいるタバサを揺さぶった。タバサはされるがままに、 ガクガクと首を振った。  そんな風にキュルケが暴れたおかげで、バランスを崩した風竜は、がくんと高 度を落とした。そのときの揺れでバランスを崩し、ギーシュは風竜の背中から落っ こちた。ぎぃやぁあああああああ、と絶叫を残し、彼は落下したが、相手がギー シュだったので誰も気にしなかった。途中でギーシュは杖《つえ》を振り、『レ ビテーション』で浮かぶことができたので、危うく命を落とすことは免《まぬが》 れた。  ルイズもバランスを崩したが、才人がそっと手を伸ばして腰を抱き、体を支え てくれた。腰に回された手を見て、ルイズは顔を赤らめた。今朝、アルビオンか ら逃げ出してきたときに、才人は自分にキスをした。そのとき、自分は寝たフリ をしたのだった。  なんでだろう。なんで寝たフリをしたんだろう。  好きなのかもしれない、と思ったけど、それは認めたくなかった。だって、才 人は自分の使い魔だし、それに貴族じゃない。貴族じゃない人間に恋心を抱くな んて、想像したことすらなかった。貴族と平民は違う人間……、そう言われて育っ てきたルイズにとって、自分の胸騒ぎは、戸惑いを生むだけだった。そばにいる と、その気持ちが本当なのかどうか、確かめる余裕さえなかった。  結局、腰に回された手を見て、ルイズは怒ったような口調で言った。 「き、気安くさわったら、怒るんだから」 「お前、落ちそうだったんだぜ。ギーシュみたいに」  才人も、顔を赤らめて言った。 「いいのよ、ギーシュは落ちたって。ギーシュだし」  ルイズは、戸惑いからなんだかトチくるったことを言った。 「そ、そりゃ、あいつは落ちたっていいけどよ。お前が落ちたら困るだろ。魔法 が使えないんだから」 「使い魔のくせに、ご主人様を侮辱するの?」  ルイズはふんっと顔をそむけた。でも、それほど怒ってないようだった。 「おまけになんだかなれなれしいし。失礼しちゃうわ。ほんとに。ふんとに」  ルイズはぶつぶつと文句を言ったが、才人《さいと 》の手をふりほどこうと はしない。それどころか、心もち体を預けてくるようにして、才人に寄り添って きた。でも、顔は依然、そむけたままだ。才人は、ルイズの顔をちらっと盗み見 た。  白い頬《ほお》がほんのりと桃色に染まり、可憐《か れん》なデイジーのよ うな下唇を軽く噛《か》んでいる。アンリエッタも綺麗《き れい》だけど……、 やっぱりルイズは可愛《かわい》い、と思った。腰に回した手を確かめる。そし て、気づく。ウエストなんか、俺の太ももぐらいしかないんじゃなかろか。  そんな硬い表情でよりそっていると、キュルケが振り向いて、まあ、と呟《つ ぶや》いた。 「いつの間にできてたの? あなたたち」  ルイズは、気づいたように、はっ! と顔を赤らめ、思いっきり才人を突き飛 ばした。 「できてなんかないわよ! ばかじゃないかしら!」  才人は、絶叫をたなびかせて、地面へと落ちていく。本を読んでいたタバサが、 めんどくさそうに杖《つえ》を振り、才人に『レビテーション』をかけた。  才人が地面にふんわりと降り立つと、先ほど落下したギーシュが、恨めしげな 顔で歩いていた。そこは草原の中を走る、街道であった。  ギーシュは立ち止まると、いつものキザったらしい仕草で、才人に声をかけた。

「きみも落ちたのかね」  才人は、疲れた声で答えた。 「落とされた」 「で、彼女たちは、迎えに来てはくれんのかね」  才人は空を見上げた。青空の中、風竜はぐんぐん遠ざかっていく。 「……そうみたいだな」 「なるほど。では歩こう。まあ、半日も歩けばつくさ」  あまり気にした風もなく、ギーシュは歩き始めた。才人はなんとなく、こいつ は大物かもしれないと思った。 「ところで、きみ、その、なんだ。聞きたいことがあるんだ。答えたまえ」  ギーシュは薔薇《ば ら 》の造花をいじりながら才人に尋《たず》ねた。 「あんだよ」 「姫殿下は、その、ぼくのことをなにか噂《うわさ》しなかったかね? 頼もし いとか、やるではないですかとか、追って恩賞の沙汰《さ た 》があるとか、 その、密会の約束をしたためた手紙をきみに託したとか……」  才人《さいと 》はちょっとギーシュがかわいそうになった。アンリエッタは ギーシュの『ギ』の字も話題に上らせなかったからだ。 「歩こうか」  才人は聞こえなかったフリをして、すたすたと歩き始めた。ギーシュがそのあ とを追いかけてくる。 「その、何か噂《うわさ》しなかったかね?」 「さあ、ほら、歩こうぜ。健康にもいい」 「なあきみ、姫殿下は、ぼくのことを……」  ぽかぽかと太陽が照らす中、二人は魔法学院目指して歩いた。    かつては名城と謳《うた》われたニューカッスルの城は、惨状《さんじょう》 を呈していた。生き残ったものに絶望を感じさせ、死者に鞭《むち》打つ惨状で ある。城壁は度重なる砲撃と魔法攻撃で、瓦礫《が れき》の山となり、無残に 焼け焦げた死体が転がっている。  攻城に要した時間はわずかだったが、反乱軍……、いや、いまやアルビオンに 王さまは存在しないのだから、反乱軍『レコン・キスタ』は、すでにアルビオン の新政府である……、の損害は想像の範囲を超えていた。三百の王軍に対して、 損害は二千。怪我人《け が にん》も合わせれば、四千。戦死傷者の数だけみ れば、どちらが勝ったのかわからないぐらいであった。  浮遊大陸の岬の突端に位置した城は、一方向からしか攻めることができない。 密集して押し寄せたレコン・キスタの先陣は、魔法と大砲の斉射を何度も食らい、 大損害を受けたのである。  しかし、所詮《しょせん》は多勢に無勢。一旦《いったん》、城壁の内側へと 侵入された堅城は、もろかった。王軍は、そのほとんどがメイジで護衛の兵を持 たなかった。王軍のメイジたちは、群がるアリのような名もなき『レコン・キス タ』の兵士たちに一人、また一人と討《う》ち取られ、散《ち》っていった。  敵に与えた損害は大きかったが……、その代償として、王軍は全滅した。文字 通りの全滅であった。最後の一兵に至るまで、王軍は戦い、斃《たお》れた。  つまり、アルビオンの革命戦争の最終決戦、ニューカッスルの攻城戦は、百倍 以上の敵軍に対して、自軍の十倍にも上る損害を与えた戦い……、伝説となった のであった。    戦が終わった二日後、照りつける太陽の下、死体と瓦礫が入り混じる中、長身 の貴族が戦跡を検分していた。羽のついた帽子に、アルビオンでは珍しいトリス テインの魔法衛士隊の制服。  ワルドであった。  彼の隣には、フードを目深にかぶった女のメイジ。  土くれのフーケであった。彼女は、ラ・ロシェールから船に乗り、アルビオン に渡ってきたのである。昨晩、アルビオンの首都、ロンディニウムの酒場でワル ドと合流して、このニューカッスルの戦場跡へとやってきた。  周りでは、『レコン・キスタ』の兵士たちが、財宝|漁《あさ》りにいそしん でいる。宝物庫と思《おぼ》しき辺りでは、金貨探しの一団が歓声をあげていた。

 長槍《ながやり》をかついだ[#底本「かついた」]傭兵《ようへい》の一団 が、元は綺麗《き れい》な中庭だった瓦礫《が れき》の山に転がる死体から 装飾品や武器を奪い取り、魔法の杖《つえ》を見つけては大声ではしゃいでいる。

 フーケは、その様子を苦々しげに見つめて、舌打ちをならした。  そんなフーケの表情に気づき、ワルドは薄い笑いを浮かべた。 「どうした、土くれよ。貴様もあの連中のように、宝石を漁らんのか。貴族から 財宝を奪い取るのは、貴様の仕事じゃなかったのか」 「私とあんな連中をいっしょにしないで欲しいわね。死体から宝石を奪い取るの は、趣味じゃないわ」 「盗賊には、盗賊の美学があるということか」  ワルドは笑った。 「据《す》え膳《ぜん》に興味はないわ。私は、大切なお宝を盗まれて、あたふ たする貴族の顔を見るのが好きだったのよ。こいつらは……」  フーケは、ちらっと王軍のメイジの死体を横目で眺めた。 「もう、慌てることもできないわね」 「アルビオンの王党派は貴様の仇《かたき》だろうが。王家の名の下に、貴様の 家名は辱《はずかし》められたのではなかったか?」  ワルドが嘯《うそぶ》くように言うと、フーケは冷たい、感情を抑えた声で頷 《うなず》いた。 「そうね。そうなんだけどね」  それから、ワルドの方を向いた。二の腕の中ほどから左腕が切断されている。 主をなくした制服の袖《そで》が、ひらひらと風に揺られていた。 「あんたも随分と苦戦したようね」  ワルドは、変わらぬ調子の声で答えた。 「ウェールズと腕一本なら、安い取引だったと言わねばならんだろう」 「たいしたやつだね。あの『ガンダールヴ』。風のスクウェアのあんたの腕を、 ぶった切っちまうなんてね」 「平民だと思って、油断したよ」 「だから言ったじゃない。あいつは私のゴーレムだってやっつけたんだ。でもま あ、この城にいたんじゃあ、生き残れはしなかっただろうけどね」  フーケがそう言うと、ワルドは冷たい微笑を浮かべた。 「ガンダールヴといえど、所詮《しょせん》は人だ。攻城の隊から、それらしき 人物に苦戦したという報告は届いていない。やつは俺《おれ》と戦って、力を消 耗《しょうもう》していた。おそらく、ただの平民に成り果てていただろうな。 ガンダールヴを討《う》ち取った兵は、それが伝説の使い魔と気づきもしなかっ ただろう」  フーケは、気がなさそうに鼻を鳴らした。サイトとか呼ばれていた、妙な格好 の少年を脳裏に浮かべる。そんなに簡単に死ぬようなタマだろうか? 「で、その手紙とやらはどこにあるんだい?」 「この辺りだ」  ワルドは、杖《つえ》で地面を指した。そこは、二日前まで礼拝堂であった場 所だ。ワルドとルイズが結婚式を挙げようとした場所であり、ウェールズが命を 失った場所であった。  しかし、今ではただの瓦礫《が れき》の山となっていた。 「ふーん、あのラ・ヴァリエールの小娘……、あんたの元婚約者のポケットに、 その手紙は入ってるんでしょう?」 「そうだ」 「見殺し? 愛してなかったの?」 「愛するとか、愛さないとか、そういった感情は忘れたよ」  抑揚《よくよう》の変わらぬ声で、ワルドはそう言った。  呪文《じゅもん》を詠唱し、杖を振った。小型の竜巻があらわれ、辺りの瓦礫 が飛び散る。  徐々に、礼拝堂の床が見えてきた。  始祖ブリミルの像と、椅子《い す 》に挟まれた間に、ウェールズの亡骸 《なきがら》があった。椅子と像に挟まれていたおかげで、亡骸はつぶれていな かった。 「あらら。懐かしのウェールズさまじゃない」  フーケが驚いた声をあげた。元はアルビオンの貴族だったフーケは、ウェール ズの顔を覚えていた。  ワルドは、自分が殺したウェールズの亡骸には目もくれず、ルイズと才人《さ いと 》の死体を探した。  しかし……、どこにも死体は見つからない。 「ほんとにここで、あいつらは死んだの?」  そのはずだが、と呟《つぶや》いて、ワルドは辺りを注意深く探し始めた。 「ふーん……、あら、これってジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『始祖ブリミル の光臨』じゃないの」  フーケが、床に転がった絵画を手に取った。 「と、思ったら複製か。ま、そうよね、こんな田舎《いなか》の城の礼拝堂に… …、って、ん?」  フーケは、絵画が転がっていた床の上に、ぽっこりと開いた直径一メイルほど の穴を見つけ、ワルドを呼んだ。 「ねえワルド。この穴、何かしら?」  ワルドは眉《まゆ》をひそめると、しゃがんでフーケが指した穴を覗《のぞ》 き込む。ギーシュの使い魔である巨大モグラが掘った穴だったが、ワルドはそれ を知らない。ワルドの頬《ほお》を、穴の奥から吹く冷たい風がなぶる。 「もしかして、この穴を掘って、ラ・ヴァリエールの娘とガンダールヴは逃げた んじゃないの?」  フーケが言った。そうに違いない。ワルドの顔が、怒りでゆがむ。 「中に入って、追いかけてみる?」 「無駄だろう。風が入ってくるということは、空に通じているはずだ」  ワルドは苦々しい声で言った。そんな様子を見て、フーケがにっこりと微笑 《ほほえ》んだ。 「あんたも、そんな顔をするのね。ガーゴイルみたいに感情のない男だと思った けど……、どうしてどうして、気持ちが顔に出るタイプ?」  からかうな、と言って、ワルドは立ち上がる。  遠くから、そんな二人に声がかけられた。  快活な、澄んだ声だった。 「子爵! ワルド君! 件《くだん》の手紙は見つかったかね? アンリエッタ が、ウェールズにしたためたという、その、なんだ、ラヴレターは……。ゲルマ ニアとトリステインの婚姻《こんいん》を阻《はば》む救世主は見つかったかね?」

 ワルドは首を振って、あらわれた男に応《こた》えた。  やってきた男は、年のころ三十代の半ば。丸い球帽をかぶり、緑色のローブと マントを身に着けている。一見すると聖職者のような格好に見えた。しかしなが ら、物腰は軽く、軍人のようであった。高い鷲鼻《わしばな》に、理知的な色を たたえた碧眼《へきがん》。帽子の裾《すそ》から、カールした金髪が覗《のぞ》 いている。 「閣下《かっか 》。どうやら、手紙は穴からすり抜けたようです。私のミスで す。申し訳ありません。なんなりと罰をお与えください」  ワルドは、地面に膝《ひざ》をつき、頭《こうべ》を垂れた。  閣下と呼ばれた男は、にかっと人懐こそうな笑みを浮かべ、ワルドに近寄ると その肩を叩《たた》いた。 「何を言うか! 子爵! きみは目覚ましい働きをしたのだよ。敵軍の勇将を一 人で討《う》ち取る働きをしてみせたのだ! ほら、そこに眠っているのは、あ の親愛なるウェールズ皇太子じゃないかね? 誇りたまえ! きみが倒したのだ!  彼は、ずいぶんと余を嫌っていたが……、こうして見ると不思議だ、妙な友情 さえ感じるよ。ああ、そうだった。死んでしまえば、誰《だれ》もがともだちだっ たな」  ワルドは、セリフの最後に込められた皮肉に気づき、わずかに頬《ほお》をゆ がめた。それから、すぐに真顔に戻り、自分の上官に再び謝罪を繰り返した。 「ですが、閣下が欲しがっておられた、アンリエッタの手紙を手に入れる任務に 失敗いたしました。私は閣下のご期待に添うことができませんでした」 「気にするな。同盟阻止より、確実にウェールズをしとめることの方が大事だ。 理想は、一歩ずつ、着実に進むことにより達成される」  それから緑のローブの男は、フーケの方を向いた。 「子爵、そこの綺麗《き れい》な女性を余に紹介してくれたまえ。未《いま》 だ僧籍に身を置く余からは、女性に声をかけづらいからね」  フーケは、男を見つめた。ワルドが頭を下げているところを見ると、随分と偉 いさんなのだろう。だがしかし、気に入らない。妙なオーラを放っている。禍々 《まがまが》しい雰囲気が、ローブの隙間《すきま 》から漂ってくる。  ワルドは立ち上がると、男にフーケを紹介した。 「彼女が、かつてトリステインの貴族たちを震え上がらせた『土くれ』のフーケ にございます。閣下《かっか 》」 「おお! 噂《うわさ》はかねがね存じておるよ! お会いできて光栄だ。ミス・ サウスゴータ」  かつて捨てた貴族の名を口にされたフーケは微笑《ほほえ》んだ。 「ワルドに、わたしのその名前を教えたのは、あなたなのね?」 「そうとも。余はアルビオンのすべての貴族を知っておる。系図、紋章、土地の 所有権……、管区を預かる司教時代にすべて諳《そら》んじた。おお、ご挨拶 《あいさつ》が遅れたね」  男は、目を丸く見開いて、胸に手を添えた。 「『レコン・キスタ』総司令官を務めさせていただいておる、オリヴァー・クロ ムウェルだ。元はこの通り、一介の司教に過ぎぬ。しかしながら、貴族議会の投 票により、総司令官に任じられたからには、微力を尽くさねばならぬ。始祖ブリ ミルに仕える聖職者でありながら、『余』などという言葉を使うのを許してくれ たまえよ? 微力の行使には信用と権威が必要なのだ」 <img src="img/03_029.jpg"> 「閣下《かっか 》はすでに、ただの総司令官ではありません。今ではアルビオ ンの……」 「皇帝だ、子爵」  クロムウェルは笑った。しかし、目の色は変わらない。 「確かにトリステインとゲルマニアの同盟阻止は、余の願うところだ。しかし、 それよりももっと大事なことがある。なんだかわかるかね? 子爵」 「閣下の深いお考えは、凡人の私にははかりかねます」  クロムウェルは、かっと目を見開いた。それから、両手を振り上げると、大げ さな身振りで演説を開始した。 「『結束』だ! 鉄の『結束』だ! ハルケギニアは我々、選ばれた貴族たちに よって結束し、聖地をあの忌《い》まわしきエルフどもから取り返す! それが 始祖ブリミルより余に与えられし使命なのだ! 『結束』には、なにより信用が 第一だ。だから余は子爵、きみを信用する。些細《さ さい》な失敗を責めはし ない」  ワルドは深々と頭を下げた。 「その偉大なる使命のために、始祖ブリミルは余に力を授けたのだ」  フーケの眉《まゆ》が、ぴくんと跳ねた。力? いったい、どんな力だという のだろうか? 「閣下、始祖が閣下にお与えになった力とはなんでございましょう? よければ、 お聞かせ願えませんこと」  自分の演説に酔うような口調で、クロムウェルは続けた。 「魔法の四大系統はご存知かね? ミス・サウスゴータ」  フーケは頷《うなず》いた。そんなことは、子供でも知っている。火、風、水、 土の四つである。 「その四大系統に加え、魔法にはもう一つの系統が存在する。始祖ブリミルが用 《もち》いし、零《ゼロ》番目の系統だ。真実、根源、万物の祖となる系統だ」

「零番目の系統……、虚無?」  フーケは青ざめた。今は失われた系統だ。どんな魔法だったのかすら、伝説の 闇《やみ》の向こうに消えている。この男は、その零番目の系統を知っていると いうのだろうか? 「余はその力を、始祖ブリミルより授かったのだ。だからこそ、貴族議会の諸君 は、余をハルケギニアの皇帝にすることを決めたのだ」  クロムウェルは、ウェールズの死体を指差した。 「ワルド君。ウェールズ皇太子を、是非とも余の友人に加えたいのだが。彼はな るほど、余の最大の敵であったが、だからこそ死して後《のち》は良き友人にな れると思う。異存はあるかね?」  ワルドは首を振った。 「閣下の決定に異論が挟めようはずもございません」  クロムウェルは、にっこりと笑った。 「では、ミス・サウスゴータ。貴女《あなた》に、『虚無』の系統をお見せしよ う」  フーケは、息を呑《の》んでクロムウェルの挙動を見つめた。  クロムウェルは腰にさした杖《つえ》を引き抜いた。  低い、小さな詠唱がクロムウェルの口から漏れる。フーケがかつて聞いたこと のない言葉であった。  詠唱が完成すると、クロムウェルは優しくウェールズの死体に、杖を振り下ろ す。  すると……、なんということであろう、冷たい躯《むくろ》であったウェール ズの瞳《ひとみ》が、ぱちりと開いた。フーケの背筋が凍りついた。  ウェールズは、ゆっくりと身を起こした。青白かった顔が、みるみるうちに生 前の面影を取り戻していく。まるで萎《しお》れた花が水を吸うように、ウェー ルズの体に生気がみなぎっていく。 「おはよう、皇太子」  クロムウェルがつぶやく。  蘇《よみがえ》ったウェールズは、クロムウェルに微笑《ほほえ》み返した。

「久しぶりだね、大司教」 「失礼ながら、今では皇帝なのだ。親愛なる皇太子」 「そうだった。これは失礼した。閣下《かっか 》」  ウェールズは膝《ひざ》をつくと、臣下の礼を取った。 「きみを余の親衛隊の一人に加えようと思うのだが。ウェールズ君」 「喜んで」 「なら、友人たちに引き合わせてあげよう」  クロムウェルは歩き出した。そのあとを、ウェールズが生前と変わらぬ仕草で 歩いていく。  フーケは呆然《ぼうぜん》として、その様子を見つめていた。クロムウェルが 思い出したように立ち止まり、振り向いて言った。 「ワルド君、安心したまえ。同盟は結ばれてもかまわない。どのみちトリステイ ンは裸だ。余の計画に変更はない」  ワルドは会釈した。 「外交には二種類あってな、杖とパンだ。とりあえずトリステインとゲルマニア には温かいパンをくれてやる」 「御意」 「トリステインは、なんとしてでも余の版図に加えねばならぬ。あの王室には 『始祖の祈祷書《き とうしょ》が眠っておるからな。聖地に赴《おもむ》く際 には、是非とも携《たずさ》えたいものだ」  そう言って満足げに頷《うなず》くと、クロムウェルは去っていった。    クロムウェルとウェールズが視界の外に去ったあと、フーケはやっとの思いで 口を開いた。 「あれが、虚無……? 死者が蘇《よみがえ》った。そんなバカな」  ワルドがつぶやいた。 「虚無は生命を操る系統……。閣下《かっか 》が言うには、そういうことらし い。俺《おれ》にも信じられんが、目の当たりにすると、信じざるを得まいな」

 フーケは、震える声で、ワルドに尋《たず》ねた。 「もしかして、あんたもさっきみたいに、虚無の魔法で動いてるんじゃないだろ うね?」  ワルドは笑った。 「俺か? 俺は違うよ。幸か不幸か、この命は生まれつきのものさ」  それからワルドは、空を仰いだ。 「しかしながら……、あまたの命が聖地に光臨せし始祖によって与えられたとす るならば……、すべての人間は『虚無』の系統で動いているとはいえないかな?」

 フーケはぎょっとした顔になって、胸を押さえた。心臓の鼓動を確かめる。生 きているという実感が、急に欲しくなったのだ。 「そんな顔をするな。これは俺の想像だ。妄想《もうそう》といってもよい」  ほっとフーケはため息をついた。それからワルドを恨めしげに見つめる。 「驚かせないでよ」  ワルドは右手で、なくなった左腕の辺りを撫《な》でながら言った。 「でもな、俺はそれを確かめたいのだ。妄想に過ぎぬのか、それとも現実なのか。 きっと聖地にその答えが眠っていると、俺は思うのだよ」    才人《さいと 》たちが、魔法学院に帰還してから三日後に、正式にトリステ イン王国王女アンリエッタと帝政ゲルマニア皇帝、アルブレヒト三世との婚姻 《こんいん》が発表された。式は一ヵ月後に行われるはこびとなり、それに先立 ち、軍事同盟が締結《ていけつ》されることとなった。  同盟の締結式は、ゲルマニアの首府、ヴィンドボナで行われ、トリステインか らは宰相のマザリーニ枢機卿《すうききょう》が出席し、条約文に署名した。  アルビオンの新政府樹立の公布が為《な》されたのは、同盟締結式の翌日。両 国の間には、すぐに緊張が走ったが、アルビオン帝国初代皇帝、クロムウェルは すぐに特使をトリステインとゲルマニアに派遣し、不可侵条約の締結を打診して きた。  両国は、協議の結果、これを受けた。両国の空軍力を合わせても、アルビオン の艦隊には対抗しきれない。喉元《のどもと》に短剣を突きつけられたような状 態での不可侵条約であったが、未《いま》だ軍備が整わぬ両国にとって、この申 し出は願ったりであった。  そして……、ハルケギニアに表面上は平和が訪れた。政治家たちにとっては、 夜も眠れない日々が続いたが、普通の貴族や、平民にとってはいつもと変わらぬ 日々が待っていた。  それは、トリステインの魔法学院でも例外ではなかった。


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